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  • 第20回「テレビ・映画に見る人間関係を科学する」

    Date: 2010.10.27 | Category: 未分類 | Response: 0

     第20回北天満サイエンスカフェのテーマは、『テレビ・映画に見る人間模様を科学する』でした。話題提供者は、大阪大学大学院・言語文化研究科のジェリー・ヨコタさんです。

     まず、男女の脳内にある感情を模式的に表したイラストをもとに、‘男女の脳の違い’についてからお話が始まりました。続いてヨコタさんがいくつかの映画を紹介してくださいました。中でも印象深かったのは、2001年に公開されたスティーブン・スピルバーグ監督作品『A.I.』のお話でした。―舞台は近未来。不治の病に冒され、冷凍保存されている息子を持った夫婦。彼の回復を必死に信じる妻と、あきらめている夫が対比的に描かれます。ある日、夫は少年の姿をしたロボットを家に連れて帰り、自分たちの子どもとして育てようと提案します。母親は、ロボットを最愛の息子の代わりにするという提案に憤慨しますが―ヨコタさんは、この場面には“感情的な妻”と“冷静な夫”というステレオタイプ化された役割意識が反映されていると分析されていました。それは、さらに一般化すれば、感情のままに動く情緒的な女性と、理性に従って動く合理的な男性という性別意識につながるといいます。また映画の後半では、実の息子が最新の科学で蘇生し、夫はもはや不要となったロボットを捨てる決断を下すのですが、妻は捨てることをためらいます。しかし、これも固定化した男女観であり、みんながそうであるとは限らない、とヨコタさんは指摘されていました。また,紹介された映画の中には、2005年公開の『ALWAYS 三丁目の夕日』もありました。この映画では、薬師丸裕子さん演じる「理想のお母さん」像といったもののほかに、家族そろって食事をとるという理想の家族像や日本人の「懐かしさ」を喚起するような風景描写がなされています。しかしこれも、ステレオタイプ化されたイメージではないかとヨコタさんはおっしゃっていました。

     続いて紹介されたのは『Mad Man』という60年代のウーマンリブ運動を描いた作品でした。ここでヨコタさんが「『フェミニスト』って一般的にどういう意味だと思いますか?」と聴衆に質問を投げかけました。返ってきたのは「女性保護を訴えたり、女性の権利を主張する女性」という答えでした。確かに、私たちが「フェミニスト」という言葉を使うときにはそういった認識をしていると思います。するとヨコタさんが、フェミニストにまつわる海外のジョークを紹介してくれました。それは、「切れた電球を替えるのに何人のフェミニストが必要か?」というもので、これは、女性保護を訴えるあまりフェミニストは電球を換えるといった肉体労働をしたがらない、と彼女たちを皮肉ったものです。また、他にもジェンダーに関するジョークはいろいろあるそうで、「なぜ女性が美術館に入るには裸体にならなければならないのか?」というものもあるそうです。確かに、美術館に並べてある有名な絵の中には、女性の裸体を扱ったものが多いですよね。実際にも、現代画家の95%は男性で、20世紀美術と呼ばれるものの85%が裸体を描いたものだそうです。こうしたことをふまえ、ヨコタさんは「ジェンダーって何だろう?」と聴衆に問いかけました。

     ここでヨコタさんのお話は一旦終わり、ワークショップに移ります。これは今回初めての取り組みで、サイエンスカフェを話題提供者から聴衆へという一方通行型のパブリックレクチャーにとどまらせず、聴衆も参加する双方向型の対話へと変えていけないだろうかという試みです。今回は、4、5人のグループを作り、自分のお気に入りの映画やテレビ番組から読み取れる役割意識やジェンダー意識について話し合うという形をとりました。私の入ったグループは、男性一人、女性三人という構成で、まず簡単な自己紹介から始まり、それぞれの方が紹介した作品は、故石原裕次郎も出演した『素晴らしきヒコーキ野郎』(1965年公開)からミュージカル映画の傑作『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年公開)までバラエティに富んでいました。ワークショップで出た主な意見を、他のグループの方のものも合わせると次のようになりました。

    ・『素晴らしきヒコーキ野郎』には、例えば「日本人らしさ」「ドイツ人らしさ」という国ごとの特徴が描かれている
    ・『サウンド・オブ・ミュージック』に出てくるトラップ大佐が、家庭教師としてやってきたマリアに対し望むようになるのは「子どもたちの母親」というポジションではないか
    ・ニュース番組では、メインキャスターが男性で、アシスタントが女性という配置が多い
    ・アクション作品には、男性の登場人物の方が多い
    ・ホラー映画では、最後に生き残るのはなぜか女性である場合が多い
    ・「女性が男性に尽くす」という姿勢を描いた作品がよく見られる

     このようにワークショップで出たことに対し、ヨコタさんがおっしゃったのは、例えば「女性が尽くす」という(ステレオタイプ型の)行為が悪いというわけではなく、人にとって価値観が違うのに他人に押し付けてしまうことが問題なのではないかということでした。「女性が尽くす」という言い方はするのに「男性が尽くす」という言い方には違和感があったり、「女だから大学には行かせない」といった、性別による一方的な決めつけはおかしいのではないか、と。さらにヨコタさんは、男女関係において大きな出来事である「結婚」の話題にも触れ、栗原奈名子さんという女性映画監督のドキュメンタリー作品を紹介されました。栗原さんは、1984年にアメリカに移り住み、現在に至ります。そのドキュメンタリーは、日・米それぞれの結婚観を取り上げているそうです。その中では、今やアメリカのみならず日本でも主流となっている「恋愛結婚」に対する疑問も呈されているといいます。あるいはその過程の中で「シングルマザー」、「シングルファザー」として生きることを選択する人もいます。ここで司会者の小川さんが、「恋愛映画の中には『シングルファザーと主人公の女性の結婚』という結末を迎える結末のものが多いのではないでしょうか。」と指摘していました。

     結婚、そして育児。それは「男性」「女性」という観念が最も強く意識される場面であり、だからこそ様々な問題が生まれるのかもしれません。例えば、最近話題になった「赤ちゃんポスト」をめぐる議論。メディアは、ポストにわが子を置いていく母親を批判する傾向が強いようですが、「父親はどうなのでしょう?」とヨコタさんは言い、一つの視点からの見方に偏ってしまうマスコミの報道の仕方に疑問を持っているとおっしゃっていました。「男女共同参画社会」が叫ばれる中、実際に社会に出ると、根強く残る男女差別の壁にぶつかるといった話も耳にします。聴衆の方の中にもそのような実体験をされたという方がいらっしゃいました。また国立大学では、女性教員を増やすため、「全教職員の30%を女性教員に」という取り組みが行われているそうです。

     このように、一見男女差別がなくなってきたかにみえる現代の社会の中にも、実はまだまだ様々な障害が残っていることを浮き彫りにして、この日のサイエンスカフェは終了を迎えました。映画やテレビ番組といった身近な題材を扱いながら、私たちが普段意識していないところにも、男女に関する固定化された視点や偏見が潜んでいるんだなあとしみじみ実感しました。これからは、映画やテレビの見方が少し変わるかもしれません。

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